the-righteous-reign-full-1116x490 なぜ安息することを学ぶ必要があるのか(パート 1/3)

人生のあらゆる分野において突破や解放を体験できずにいますか?友である皆さん。神はあなたが主の祝福を受け取るために、自分自身を安息の位置に置くことを望んでおられます!ジョセフ・プリンス牧師がお届けする三部構成のシリーズから、安息こそが人生における最もパワフルな立ち位置であることを学んでいきましょう。

今日、イエスは父の御座の右に座しておられます(ヘブル人への手紙 8:1参照)。また、聖書によると、この世において私たちもキリストと同じような者とされました(ヨハネの手紙 第一 4:17参照)。つまり、私たちもまた父の右に座しているということです。

ここで「座している」とは安息の描写です。旧約聖書において、祭司たちは決して座りませんでした。彼らの働きは決して終わることがなかったので、モーセの幕屋にも、神の宮にも椅子はなかったのです。しかし、イエスは働きを完了されたのでお座りになりました(ヨハネの福音書 19:30、ヘブル人への手紙 10:11-13参照)。そして、神は私に「息子よ。私の人々に御座の姿勢を持つよう伝えなさい」と言われたのです。

では、「御座の姿勢」を持つとは何を意味するのでしょうか?

「主は私の主に言われた。『あなたはわたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。』主はあなたの力の杖をシオンから伸ばされる。『あなたの敵のただ中で治めよ』と。」

ー詩篇 110:1-2(新改訳)

ヘブライ語で、最初の「主」はJehovah、またはYahwehを指し、次の「主」はAdonaiを指します。すなわち、最初の節は実際には「Yahwehは私のAdonaiに言われた…」と解釈されます。イエスは罪と死に打ち勝って死からよみがえられた後に、父の御元へ戻られました。そして、父は「あなたはわたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで」と言われました。ですから、イエスの御座の姿勢とは、座って、天の父が敵をご自分の足台としてくださることを期待する姿勢なのです。

聖書の時代において、敗れた敵たちは鎖に繋がれ、勝利の王は御座に座り、勝利のしるしとして敗れた敵たちの背に足を置いていました。同様に、イエスに敗れられた敵たちは、一人ずつイエスの元に引きずり出され、主の足の下に置かれたのです。

神はイエスと同じ御座の姿勢を持つようにと私たちに言っておられます。つまり、主が敵を足台とされる間、私たちは安息していなさいということなのです。

「…キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて…神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。教会はキリストのからだであり…」

ーエペソ人への手紙 1:20, 22-23(新改訳)

私たち教会はキリストのからだです。敵を私たちの足台にするのは誰でしょうか?それは、私たちではなく、神ご自身です!神のみことばは真理であり、神はご自分のみことばを守ってくださいます。神は、イエスと同じ御座の姿勢を持つようにと私たちに言っておられます。つまり、主が私たちの敵を足台とされる間、私たちは安息していなさいということなのです。ですから、病気、貧困、うつ、様々な呪いといった全ての敗れた敵たちは、過ぎゆく日々の中で、私たちの足の下に次々と置かれていくのです。

神の安息に入る

神の御足に関する神ご自身の定義は何かご存知ですか?ヘブル人への手紙3章には、イスラエルの子どもたちは神のみことばを疑ったので、約束の地へ入ることが許されなかったと述べられています。しかしながら、神は「彼らは決して、わたしの約束の地に入れない」と言う代わりに、約束の地を「わたしの安息」と呼びました。

「彼らは決して、わたしの安息に入れない。」

ーヘブル人への手紙 3:11(新改訳)

つまり、旧約聖書におけるイスラエルの子どもたちにとっての物理的な地は、新しい契約の下で神を信じる者にとっては神の恵みであり、神の安息なのです。それらが今日、あなたが相続するものなのです。神はあなたを足りない状態から引き上げ、豊かな地へと導き入れたいと望んでおられます!病から引き上げ、頑健さを与えたいと望んでおられます!そして、この約束の地は神の安息の場所なのです。

神のみことばは、私たちに向かって常に「恐れるな、恐れるな」と伝えます。しかし、聖書には唯一、恐れるようにと述べられている箇所が一つだけあることをご存知ですか?

「こういうわけで、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。神の安息に入るための約束がまだ残っているのに、あなたがたのうちのだれかが、そこに入れなかったということのないようにしましょう。」

ーヘブル人への手紙 4:1(新改訳)

ヘブル人への手紙 4章1節において、神は私たちに対して、神の安息に入れないことを恐れるようにと言われました。しかしながら、私たちのうちの大多数は、神が「恐れるな」と言われる多くのことについて思い悩み、それらを恐れます。しかし、神が「恐れなさい」と言われる唯一のことについては恐れないのです!

巨人ではなく安息を意識しよう

このストーリーから、ある学びを受け取ることができます。神はイスラエルの子どもたちを「乳と蜜の流れる地」へ導き入れるために下って来られたと言われました(出エジプト記 3:8参照)。つまり、約束の地は豊かさと備えの流れる地なのです。また、それは確かな約束であり、神が必ず成し遂げてくださることの声明でもあります。

しかしながら、神の人々が荒野と約束の地の間に位置するカデシュ・バルネアに辿り着いた時、彼らはどのような姿勢を持っていましたか?彼らは12人を遣わし、その地を40日間偵察させました。そのうちの10人は「アナク人の末裔である背の高い者たちが相続した地だから、イスラエルの民がその地を手に入れられるはずがない」と報告し、彼らはそれを信じました。(民数記 13:33参照)

ヘブライ語で、アナクとは鎖や首用の鎖を意味します。首用の鎖は、人に重圧を与えるくびきを描写します。神は、エジプトでイスラエルの子どもたちを監督者たちの元から解放し、彼らはもはや奴隷ではなくなりましたが、それでもまだ奴隷的な気質を持っていたのです。イスラエルの子どもたちは、神の素晴らしさや約束に焦点を置く代わりに、アナク人という巨大な問題に焦点を置き、不安と恐れの重圧の下にあったのです。

私たちはイエスが十字架で完了された御業ではなく、自分の問題に焦点を置いてしまうので、約束された安息の地に入ることができないのです。

今日、私たちのうちの何人かは、今もなお奴隷的な気質を持っています。私たちはイエスが十字架で完了された御業ではなく、自分たちの問題や症状である「アナク人」に焦点を置いてしまうので、約束された安息の地に入ることができないのです。

ここで、皆さんに質問があります。これは、私自身も神から尋ねられて答えたことのある質問です。偵察へ遣わされた12人のストーリーを読んで、自分だったら「今すぐ上って行ってそこを占領しましょう!」と言った2人の偵察隊・ヨシュアとカレブの味方をしただろうか、それとも他の10人に賛同しただろうかと考えたことはありますか?

聖霊はこう言われます。「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの先祖のように、あなたがたの心を頑なにしてはならない。」(ヘブル人への手紙 3:7-9参照)言い換えると、あなたの問題は、神があなたの状況に対して言われることよりも大きいのでしょうか?体が癒される前に、銀行口座に入金がある前に、人生における全ての問題が解決する前に、あなたは神がみことばのままにあなたを解放してくださることを信じ、安息の中を歩む選択をするでしょうか?

あなたが神に願い求める全てのことは、イエスがすでに完了してくださったので、もはや成し遂げられています。神は、あなたがその啓示を受け取ることを望んでおられるのです。そして、神はこう尋ねておられます。「たとえ巨人がいようとも、あなたは上って行って、私の安息のある約束の地へ入るだろうか?あなたは巨人ではなく、安息を意識することができるだろうか?」

 

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聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

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