your-every-blessing-is-found-in-the-person-of-jesus-full-1116x490 あなたへの全ての祝福はイエスという人の中に見出される

神によって新しい恵みの契約が導き入れられた時、神が送られたのはひと揃いの新しい掟ではなく、ご自身の愛するひとり子イエスでした。ですから、恵みは教理ではなく、人なのです。私たちが必要とする全ての祝福は、イエスという人から引き離されることはできません!

キリスト教は公式ではありません。神は私たちを見下すことも、罪のうちにある私たちを見て説明書を投げつけるようなこともなさいませんでした。そうではなく、神は人、つまり、ご自身のひとり子イエス・キリストをお与えになったほどに世を愛されたのです。主が共にいてくださることだけが、人生を生きる上であなたが唯一必要とする要素です。なぜなら、主ご自身こそが義、聖さ、成功、勝利、好意、備え、癒し、知恵、その他の全てのものをあなたに与えて祝福してくださるお方だからです!

イエスは「わたしはある」

1コリント 1:30(新改訳)
しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。

何と素晴らしいことでしょう!神は、イエスから離れて知恵を施すことはない点に着目してください。主こそが私たちの知恵です!私たちには、製造されて欠陥のある聖さや神聖さはありません。イエスこそが私たちの神聖さです!人である主が私たちの贖いなのです!

健康、癒し、備え、供給は、神があなたに与えてくださる単なる物質や贈り物ではありません。神は、あなたにイエスをお与えになりました。イエスこそ、あなたが必要とする全てなのです。

モリヤ山上で、アブラハムがイサクをいけにえとして捧げる代わりに、神は雄羊を用意されました。その場面で、神の御名の複合形であるJehovah-Jirehが初めて言及されました(創世記 22:1-14 新改訳)。「Jireh」とは「見ること、備えること」を意味しますが、ヘブライ語における逐語的な意味は、主であるJehovahはJirehだということです!赦しを与える存在から赦しを引き離せないのと同様に、Jehovahから引き離された状態で繁栄を得ることはできません。主こそあなたの備えであり、繁栄であり、供給なのです!

出エジプト記15:26で、神が苦いマラの水を癒し、イエスラエルの子どもたちが飲めるようにしてくださった場面でJehovah-Raphaという御名が初めて言及されました。この御名は、英語では「あなたを癒される主」と頻繁に訳されますが、ヘブライ語における逐語的な意味は「わたしが癒しであり、わたしが健康である」なのです!神は「わたしがあなたに癒しを与えるであろう」や「わたしがあなたに健康を与えるであろう」とは言われません。神は「わたしがあなたの健康である!わたしがあなたの癒しである!」と言われるのです。

サムエル記第一15:29には「実に、イスラエルの栄光である方は、偽ることもなく、悔やむこともない」と記されています。英訳で「栄光」は「Strength」と記されますが、それはヘブライ語で「natsach」を指し、「勝利が留まる」、すなわち、永遠の勝利を意味します。ここで、勝利は人であり、神ご自身であることに着目してください。神は、ご自身の人々の力であり、成功であり、勝利なのです!

あなたの役職やキャリアが何であれ、主があなたと共におられるという真理こそが、あなたにとって必要な全てです。なぜなら、祝福はあなたの職場や状況にあるのではないからです。あなたの健康と幸福は、移り変わるものに依り頼んでいるのではありません。それらは全て、昨日も、今日も、永遠に同じでいてくださるお方であり、変わることのない人である主イエスに依り頼んでいるのです!

知恵には二つの手がある。その両方を掴んで!

多くの人は知恵を求めます。人は皆、富、誉れ、長寿を求めるものです。しかし、知恵が人であり、主のご臨在の中にいることで知恵を得られることに気付いてはいません。いのちであるお方から離れては、長寿を得られないことにも気付いていないのです。

イエスは私たちのために知恵となられ、神の御座の右に着座されました(ヘブル人への手紙 12:2 新改訳)。主こそ真の知恵なのです。

聖書には、知恵は二つの手を持っていると記されています。左の手には富と誉れ、右の手には長寿があります(箴言 3:16 新改訳)。ですから、キリストご自身が知恵の両手であり、富と誉れ、そして長寿なのです!

申命記 230:19において、神はイスラエルの子どもたちに「わたしは、いのちと死、祝福とのろいをあなたの前に置く」と言われました。そして念の為に、神はこう加えました。

申命記 20:19-20(新改訳)
…あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、…主にすがるためである。まことにこの方こそあなたのいのちであり、あなたの日々は長く続く。…

あなたの日々の長さは人なのです!主はあなたの人生であり、あなたの日々の長さです。主はいのちであり、主のご臨在の中にいのちはあるのです。

ソロモンの過ち

主が夢の中でソロモンに現れた時、彼はおそらく20歳前後でした。神はソロモンに「あなたに何を与えようか。願え」と言われると、ソロモンは「主よ、知恵を与えてください」と答えました。すると、神はこう答えました。「見よ。わたしはあなたに、知恵と判断の心を与える。あなたより前に、あなたのような者はなく、あなたの後に、あなたのような者は起こらない。」(列王記第一 3:12 新改訳)

また、神はこうも言われましたが、多くの人はこれに着目していません。

列王記第一 3:13-14(新改訳)
「そのうえ、あなたが願わなかったもの、富と誉れもあなたに与える。…また、あなたの父ダビデが歩んだように、あなたもわたしの掟と命令を守ってわたしの道に歩むなら、あなたの日々を長くしよう。」

ここで、長寿が条件付きだったことに気付きましたか?神は「あなたもわたしの掟と命令を守ってわたしの道に歩むなら、あなたの日々を長くしよう」と言われました。

ご存知の通り、ソロモンの知恵は無傷のまま保たれることはなく、彼はすっかり幻滅した状態で晩年を過ごしました。箴言や伝道者の書に記された知恵のことばとは対照的に、彼は「実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知恵が増す者には苛立ちも増す」(伝道者の書 1:18 新改訳)などと書き記すようになりました。やがて、彼は60歳前後で若くして亡くなりました(列王記第一 11:42-43)。一体、何が起きたのでしょうか?

晩年、ソロモンには神々とのやりとりがありました。彼は、神こそが彼の真の知恵、成功、源であることを忘れてしまったのです。全てを与える主のご臨在なしでは、賜物は成就することなく堕落していきました。ソロモンには知恵の左の手しかなかったのです。彼が右の手を持ったことはありませんでした。なぜなら、神の右の御手は主イエス・キリストであり、ソロモンは主を見放したからです。

ですから、神を信じる人が、全てを与えてくださるお方への心を持つことなく、ただ賜物だけを求めているとしたら、それは何かが間違っています。肝心なのは「イエスこそ私の必要の全てです。キャリアやお金は必要ありません」という考えを持つことではありません。そうではなく、イエスをあなたの焦点とすることなのです。

ダビデは自分の源が誰かを知っていた

さて、ダビデは神の御心にかなった者でした(使徒の働き 13:22)。彼は主のご臨在の価値を理解していました。また、主にたくさん話しかける人でした。ダビデは、神のご臨在を耕しました。彼の存在に気付く人など誰もいない荒野で、羊たちを前にして彼は歌いました!サムエル記第一16:1-13で、預言者サムエルがエッサイの息子の一人を王として油注ぐために来た時、エッサイはダビデのことをすっかり忘れていました。

ダビデは野原にいて、神を讃える詩篇を歌いながら賛美していました。「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。(詩篇 118:1 新改訳)…あなたの恵みはいのちにもまさる…(詩篇 63:3)」彼は、神以外の誰も聞いていない場所で竪琴を奏でました。それは教理でも宗教でもなく、関係性なのです!

ダビデがゴリアテを目の前にした時、彼はただの少年であったにもかかわらず、恐れることはありませんでした。なぜなら、彼が意識していたのは巨人ではなく神だったからです。

サムエル記第一 17:45-46(新改訳)
ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と槍と投げ槍を持って私に向かって来るが、私は、おまえがそしったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かう。今日、主はおまえを私の手に渡される。…すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るだろう。

数年後、ダビデは王になった後でバテ・シェバと姦淫を犯し、彼女と彼女の夫ウリヤ、そして人々に対して罪を犯しました。

しかし、神がダビデと対峙するために預言者ナタンを遣わした時、ダビデはひざまずいて「私はあなたに ただあなたの前に罪ある者です…」(詩篇 51:4 新改訳)と言いました。彼は最も傷ついているお方が主であることを認識していたのです!

「私をあなたの御前から投げ捨てず」(詩篇 51:11 新改訳)はダビデの懇願でした。彼は、主のご臨在が彼を祝福してたことを確信していたのです。

主が望まれるのはあなた自身

今日、私たちはダビデと同じように心配をする必要はありません。なぜなら、私たちには主が離れていくことを恐れる必要など全くないからです。神は私たちを愛しており、私たちを決して見放さず、見捨てないと約束してくださいました(ヘブル人への手紙 13:5)。しかし、私たちは時々、物事を当たり前として捉えることがあります。神のご臨在を耕すことを忘れてしまうのです。私たちは時々、まるで「やぁ、神様!」と挨拶するかのように、日曜日になって教会に来るまで主に話しかけるのを忘れることがあるのです。

誰かを愛する時、あなたはその人の存在に価値を見出します。その人の存在を求めます。あなたにとってその人の存在は尊いので、それを耕し、それを意識するのです!主は決してあなたを見放したり、見捨てたりなさらないと神学的に知ることと、主のご臨在を耕し、あなたがそれを信じていると主に示すこととは全く別物なのです。

主は、あなたの存在を妬まれます。神はあなたを愛しておられます。神は、あなたと個人的な関係を築きたいのです。神は人々をえこひいきするお方ではありませんが、神を敬い、そのご臨在に価値を置く人には尊重を示してくださいます。神ご自身があなたの癒しであり、備えであり、知恵なのです。ですから、あなたが主のご臨在に栄誉を示せば示すほど、神ご自身が栄光のうちに明らかにされる様子を、あなたはより一層見るようになるのです!

娘のジェシカがまだ赤ちゃんだった頃、夜に発熱して泣くようなことが何度かありました。私は彼女に何度も手を置き、祈り、戒め… 知る限りのあらゆる公式を試しましたが、効果は見えませんでした。しかし、癒しを求めることを止め、癒し主を求め始めた時に状況が変わりました!私の焦点の矛先が我が子ではなくなった時、自分の意識の中でイエスが病よりも大きくなり、それに伴う結果が生じたのです。

主のご臨在を求めてください!主はJehovah-Rapha(わたしは癒しであり、健康である)です。主のご臨在の中に癒しがあるのです!

主のご臨在があなたの成功

ここで、ヨセフの物語に目を向けましょう。創世記39:2で、聖書にはこう記されています。「主がヨセフとともにおられたので、彼は成功する者となり、そのエジプト人の主人の家に住んだ。」(新改訳)

念の為にお伝えしますが、ヨセフは何かしらの高い役職についていたわけでも、大規模なオフィスを構えて三揃いのスーツを着ていたわけでもありません。創世記39:1にはこう記されています。「一方、ヨセフはエジプトへ連れて行かれた。ファラオの廷臣で侍従長のポティファルという一人のエジプト人が、ヨセフを連れ下ったイシュマエル人の手からヨセフを買い取った。」(新改訳)

つまり、彼は奴隷の少年でした!身体検査のために、奴隷市場で裸のまま立たされていた17歳前後の奴隷の少年だったのです。しかし、まず彼について聖書に記されていたのは、主が彼と共にあり、「彼は成功する者」となることでした。どのようにヨセフは成功する者だったのでしょうか?

創世記 39:3(新改訳)
彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを彼に成功させてくださるのを見た。

何ということでしょう!ポティファルには、主がヨセフと共にいることが見えたのです!彼には、神がヨセフのすること全てを繁栄させていたのが見えました。ジョセフの成功は、単に「霊的な」ものではありませんでした。異邦人で、かつ霊的な判断力を微塵も持たなかったポティファルにも、自分自身の目をもってそれが見えたのです。

ポティファルは、この奴隷少年の人生において、主のご臨在が明らかにされるのを見ました。ヨセフがトマトを植えると、他の誰のトマトよりも大きく育ったはずです。馬たちを制した時、まるで彼が馬の調教の達人であったかのように、全ての馬たちは応答したはずです。この奴隷少年には、好意が与えられていたのです!

しかし、聞いてください。ポティファルが見た以上に、常にヨセフは主のご臨在を意識していたと私は確信しています。なぜなら、ポティファルの妻がヨセフを誘惑しようとした時、彼は彼女を拒み、「どうして、そのような大きな悪事をして、神に対して罪を犯すことができるでしょうか」(創世記 39:7-9 新改訳)と言ったからです。彼がそう言ったのを聞いたのは、この女性以外に誰もいませんでした。つまり、これは見せかけの台詞ではなかったということです。ヨセフは「神がここにおられる!」と言っていたのです!

その後のエジプトにおけるヨセフの経験からも、主によって、備え、知恵、成功が与えられると彼が信頼していたことが証明されました。彼は、それらの好意と成功を楽しみ、最終的にパロの副司令官となったのです!

あなたもこのような成功を求めていますか?それならば、「主がヨセフとともにおられた」という一番最初の記述を忘れないでください。

この瞬間、この場所でイエスを見る

聖書には、主は苦しむ時にそこにある強き助けであると記されています。(詩篇 46:1)

主がラザロの墓に到着した時、ラザロは死後4日が経過していました。ラザロの姉妹であるマルタは、イエスにこう言いました。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」イエスがマルタに「あなたの兄弟はよみがえります」と言われた時、彼女は「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています」と答えました(ヨハネの福音書 11:20-24 新改訳)。彼女は主のご臨在こそが答えであることに気付かずに、イエスを過去と未来に押しやってしまったのです!

イエスは彼女に「わたしはよみがえりです。いのちです…」(ヨハネの福音書 11:25 新改訳)と宣言しました。神はいつでも「わたしはある」のお方です!つまり、「わたしはあった」でも、「わたしはあるであろう」でもありません。福音書において、主のご臨在のある所では、死ぬ人も、死んだままであり続ける人もいなかった点にお気付きでしょうか?

「主こそ、必要な時にそこにある強き助けである」と私たちが認識することを、主は望んでおられます。

ですから、友人や配偶者の存在を耕すのと同じように、主のご臨在を耕してください。友人や配偶者の存在を楽しむ時、あなたは相手に話かけ、会話をして、感謝の思いを表現するでしょう!まるで自分が家具の一部に過ぎないかのような態度は取らないはずです!

あなたが群衆の中を歩く時、イエスに向かって「まぁ、イエス。今日のこの場所はぎゅうぎゅう詰めですね!」と話してください。たとえ何かに心を乱されても、「主よ、この人のこの部分には感謝できません。」と主に話すのです!

子どもがあなたに微笑んでくれたり、ベストな場所に駐車できたりなど、些細なことに天からのウィンクが潜んでいるのを探すのです。これらのことは偶然ではありません。神が「私はあなたと共にいる」と言っておられるのです。

どんなことにおいても、あなたの目をイエスに向けるのです。イエスを賛美するのです。歌えないのなら、話すのです!結局のところ、聖書には「詩と賛美と霊の歌により」(コロサイ 3:16 新改訳)と記されています。主に話してください。主ご自身、そして、主のご臨在こそがあなたの答えなのです。

主のご臨在に安息を見つける

主のおられる所がどこでも、主のご臨在がどの場所にあっても、そこには安息があります。その場の雰囲気による圧力や、周囲の状況に左右されることのない安息があるのです。

かつて、モーセは神にこう言いました。「今、もしも私がみこころにかなっているのでしたら、どうかあなたの道を教えてください。そうすれば、私があなたを知ることができ、みこころにかなうようになれます。」(出エジプト記 33:13)主は言われました。

出エジプト記 33:14
「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」

モーセに語られたお方が肉体を帯びて来られ、律法や決まりの重荷による重圧の下にあった当時のユダヤ人たちの前に立ち、こう言われました。

マタイ 11:28
すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

英語の詳訳聖書には「I will cause you to rest(わたしがあなたに安息を引き起こす)」のように記されています。ギリシャ語では、文字通りに「あなたを休ませる」と記されています。

「わたしのもとに来なさい」とイエスは言われます。ある国でも、ある山でも、ある宗教でもなく、主ご自身のもとにです。「わたしのもとに来なさい。わたしの臨在があなたに安息をもたらす。わたしの臨在の中に安息がある。わたしが安息である。」主のご臨在が明らかになる所には安息があります。安息のある場所では、悪魔は何もすることができません。悪魔の領域は、混乱、動揺、ストレスなのです。

私たちは、自分の内側に住まわれるイエスに依り頼んでいるので、回復力に満ちた祝福が与えられています。私たちの癒し、長寿、繁栄、成功は、決して揺るがず、全ての力と、全ての知識と、そして何よりも全ての愛であるお方によります。だからこそ、私たちには不動の安全があるのです!言葉では言い表せない平安があるのです!

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聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

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