Why-You-Can-Enjoy-Gods-Unending-Supply-Of-Grace-1 なぜ限りなく注がれる神の恵みを 楽しむことができるのか(パート3/3)

疲れ切って、ストレスを抱えていますか?神は、神の子どもたちが恐れと心配、不安に満ちた人生を歩むことを望んではいません。神は、あなたのためにより優れた計画を持っています。ジョセフ・プリンスが3つのパートでお届けするシリーズを通して、決して終わることない神の恵みの備えのもとに生きる方法を見つけましょう!

たとえ失敗しても与えられる恵み

「プリンス牧師、たとえ私が神様に対して失敗を繰り返しても、神様は私に、恵みの波を何度も送ってくれるでしょうか?」

それは何とも難しい質問ですよね?人々は心の中で、こんな疑問を抱えています。「神様は私のことを、もう限界だと感じているだろうか?イエスでさえ、私の失敗に飽き飽きして、『いいかげんにしろ。こんなにもたくさんの恵みを与えたのに、まだ何も学んでいないではないか。これ以上、与える恵みはない!』なんて言ったりしないだろうか?」

友である皆さん、福音書のページを開いて、救い主イエスキリストがどんなに優しく、憐れみ深いかを、あなた自身のために確認するだけで分かります。人々はイエスの周りに群がり、教えを求めました。イエスは、そんな彼らの質問に答え、癒し、悪霊を追い出し、彼らの愛する人々を死からよみがえらせました。不完全な人々からの要求と、彼らの必要を満たさなければならなかった背景において、私たちはイエスの驚くべき、類いまれな愛と優しさ、そして憐れみが形となって現れる様子を垣間見るのです。

彼らの汚れや人生の失敗に関係なく、
イエスは癒しを求めて集まる
すべての人々を癒しました。

ある少年が悪霊に取り憑かれた時、彼の父親は、息子の解放と自由を信じる信仰が、自分には足りないと認識していました。それでも、イエスは少年から悪霊を追い出しました。弟子たちが大きな嵐に飲み込まれそうになった時も、彼らが恐れによって、イエスの愛と備えを信じられなくなったとわかっていても、イエスは彼らを救い出しました。これが私たちのイエスなのです!イエスは憐れみ深い方であり、私たちを決して見捨てたりしません。

また、ある男性について、彼が生まれつき目が見えないのは、誰の罪によるのかと尋ねられた時、イエスは誰の罪かという点には触れず、それでも男性の視力を完全に癒すことで、ご自身の御心を示し、傷ついた人に対する神の愛を明らかにしました。また別の機会では、大勢の人々がイエスに着いてきた時、そこに完璧な態度で参加した人は誰もいませんでしたが、イエスは彼らを奇跡的に食べさせ、12個のかご分の食事が余るほど備えてくれました。

なんと素晴らしいことだと思いませんか?マタイによる福音書を読むと、イエスはイスラエルの長老たちからも拒絶されていたことがわかります。イエスは自分の故郷の人々を訪れたのですが、彼らは断固としてイエスを拒みました。それどころか、悪霊のかしらベルゼブルの力によって、イエスは悪霊を追い出したなどと言ったのです(マタイ12:24)。イエスは、故郷の人々からも拒絶されました。彼らはイエスを神の子ではなく、「ヨセフとマリヤの息子だろう?」と言って、単なる地元の人間として捉え、イエスの発言や行動に腹を立てていました(マタイ13:54-58)。

それらすべての拒絶、非難、人々の失敗にもかかわらず、
イエスはいつも彼らを癒し、備え、解放し、救い出しました。
そして、イエスは今も変わらず、同じイエスなのです。

あなたが自由に神の祝福を受け取るために、イエスは十字架の上で、あなたの罪の代価を支払いました。それは、彼が憐れみ深い御心を持っているからであり、その御心は、今日もあなたのために鼓動を刻んでいます。あなたがどんな失敗をしたとしても、私たちの主イエスは、あなたに恵みを示すのを待っています。友だちや愛する人は、あなたを見捨てたり、見下したりするかもしれません。でも、イエスは決してそんなことはしません。あなたに注がれる神の恵みは、永続します。使徒ヨハネが語るように、イエスは恵みに溢れているので、私たちには恵みの上に、さらなる恵みが与えられるのです(ヨハネ1:14, 16)。



イエスは恵み深いということを信じる


友である皆さん、これらすべてが何を意味しているのかわかりますか?怒りの中でイエスに背を向け、言うべきでない言葉を発し、人生に起きた悲劇を主のせいにしても、イエスは変わらず、あなたに対して、憐れみと恵みに満ちた方であるという意味なのです!イエスは今も、あなたを癒し、束縛や抑圧から解放し、あなたが必要とするものを豊かに備えようとしているのです。


もし、あなたが今日、癒しを必要としているなら、「あぁ、私は罪を犯してしまったから、もう癒しの恵みは与えられないだろう。神の恵みが私に注がれる日々は、もう終わった」とは言わないでください。それは、誤った信念です!神の恵みの次の波に向かって、一歩踏み出し、「主よ、あなたの負った傷のゆえに、私は癒されたことを感謝します!私が癒されるに値する者になれたのは、ただあなたの血潮のおかげであり、私はそれを受け取ります。これから回復していくことを期待します。ありがとうございます」(イザヤ53:5)と言うのです。


自分の銀行口座を見て、過去の悪い選択の結末に気付く時、「悪い投資の決断をしてしまった。すべては自分のせいだ。今さら、神が私を助けてくれるはずなどない」とは言わないでください。そうではなく、「主よ、様々な決断をする時に、あなたが知恵を与えてくれることを感謝します。たとえ私が失敗しても、あなたは変わらずに、その豊かな恵みで、私のすべての必要を満たしてくれることを感謝します」と主に言うのです(ピリピ4:19)。


正しいことを信じる時、
つまりイエスは恵み豊かな神であると信じる時、
あなたは正しい結果を得ます。

主は、あなたが神について正しく信じることを望んでいます。つまり、神は恵みに溢れているので、罪のために、あなたがその恵みから外れることなど、決してないと信じることを望んでいるのです。あなたの失敗、弱さ、不完全さ、悪い決断などによって、神の恵みが空になることなどありません。むしろ、神がどれだけあなたを愛し、大切に思っているかに目を向けることで、神の恵みは、次から次へと打ち寄せる波のように、それらをすべて飲み込んでくれるでしょう。

そして、あなたが神に目を向け、「主よ、私にはできないけれど、あなたにはできます」と言うならば、神の知恵が、次から次へと打ち寄せる波のように、あなたの人生の決断の時に介入し、あなたをタイムリーな良い決断へと導き、やがて豊かに実を結ばせてくれるでしょう。神の好意、善良さ、憐れみの波が次から次へと打ち寄せ、あなたを守り、豊かな実りを与えてくれる光景を見るはずです。

 

愛する皆さん、
神の恵みの波を楽しむことを
日々学んでいきましょう。

 

恵みの波が打ち寄せるたびに、それを楽しみましょう。一つだけの波に落ち着いてはいけません。サーファーのようになるのです。彼らは、一つの波だけに乗って、後は浜辺にうつ伏せのままでいるなんてことはしません!最初の波のスリルを味わったら、第二の波へ、第三の波へと突き進みます。転んでも、またボードによじ登り、次の波へと向かいます。彼らは、波が打ち寄せ続けることを知っています。自分で努力して、次の波を起こす必要などありません。

それが、あなたが日々身につけるべき姿勢なのです。主の恵みの波が、あなたに向かって止むことなく、次から次へと打ち寄せ続けるのを、ただ楽しんでください。神の恵みに値する者になろうとせずに、ただ受け取るのです。たとえ転んでも、また起き上がって次の波に乗れば良いのです。忘れないでください。主の恵みと憐れみは、あなたのために満ち溢れているのです!

 

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